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国語の読解とはどういうものか

本文 国語

「作者の気持ち」を理解する必要はない

 

「作者の気持ちなんてわかんねえよ」というのが、国語が苦手な人の常套句であるように思う。が、この時点で間違っている。

まず、認識しておくべきは以下の二点。

「作者の気持ちなんて聞いてない」

「君の感想も聞いてない」

国語で問われているのは、「この文章には何が書かれていますか」ということのみで、答えは全て本文に書いてある。従って必要なのは「文章を書かれたとおりに読む」こと。つまり文法規則や文章構成通りに読むこと、端的に言うと誤読しないこと。

 あらゆる文章には解釈の余地がある。同じ文章でも、読む人によって解釈は変わる。

それはそのとおりだけれど、学校科目としての国語で求められているのは、「テクストは読み手に開かれている」とかそういうテクスト論的な話ではない。

そもそも「解釈」の幅は無制限ではない。

例えば、『僕は今日はカレーが食べたい』を、「ラーメンは豚骨醤油に限る」という意味の文章だと解釈して良いだろうか。

「良い」と答えられても困るので、「良くない」という前提で話を進める。

『僕はカレーが食べたい』という文章だけが単独で存在する場合、文法通りに可能な解釈は、文中の「僕」が「カレーが食べたい」と考えている、ということのみだ。

で、国語の問題が聞いているのは、『「僕はカレーが食べたい」という文章には何と書かれていますか』ということであり、その答えは『「僕」が、「カレーが食べたい」ということ』である。それ以外のことは求められていない。

 

「文脈を読む」とは書いてもいないことを読み取ることではない

 

文脈を読む、という行為はもちろん必要だ。が、これも別に、書いてもないことを想像しろ、ということではない。

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。

 

 問:

タカシ君が食べたいのは何カレーですか

 

 答:チキンカレー

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。先週までは。

タカシは一昨日初めて食べたグリーンカレーの刺激が忘れられない。

そのことを伝えようとしたのだが、母は「分かった」と言って、さっさと電話を切ってしまった。近所のスーパーは8時に閉まるので、急いでいたのだろう。

 

 

問:

1.タカシ君が食べたいのは何カレーですか

2.晩御飯で出てくるのは何カレーですか

 

答:1 キーマカレー 2 チキンカレー

 

『僕はカレーが食べたい』だけでは曖昧過ぎる。何カレーなのか、「僕」が誰なのか、場所や日時の設定はどうなっているのか、確定できる要素がない。前後の文章、つまり「文脈」が追加されることによって、それは明確になる。「文脈」とは、文章を複雑にするものではなく、解釈の幅を狭めて明確にするものなのだ。

 

「自分自身の考え」は必要ない

 

国語の基本は「文章を書かれたとおりに読む」ことで、これは評論でも随筆でも小説でも共通だ。試験で出題されるのは、文法規則や文脈の通りに読めば、解釈がひとつに絞られるはずの箇所のみである。従って、随筆や小説でも、読む人によって解釈が異なるような箇所は、問題となることはない。「正解」が作れないからだ。

その点を踏まえれば、読解の練習のために重視すべきは評論だ。評論は、主張したいことが正確に伝わるように書かれている。『AはBだ』という主張を、「AはCだ」とか「AはBではない」とか理解されると困る。「AはBだ、と作者は主張しているのだな」と読み取ってもらわなければ意味がない。きちんと読んでいるのに意図が明確に読み取れないなら、それは文章の方が悪い。少なくとも教科書や試験で出題されるものは、読めば伝わる文章が選ばれている。

その場合重要なのは、自分の意見や感想を挟まないこと。仮に書かれていることが間違いだと思っても、それは読解とは無関係だ。

 

本文:

1+1は2だが、同時に3でもある。従って2+2は4でもありながら、6でもあるのだ

 

問:

『2+2は4でもありながら、6でもあるのだ』とありますが、それはなぜですか

 

答: 1+1は2だが、同時に3でもあるから

 

「1+1は2であって、3というのは間違いだ」と思ったとしても、それは「この文章には何が書かれているか」の読解とは切り離されなければならない。

『男は男らしく、女は女らしくあるべきだ、何故なら……』という本文があって、『男が男らしくあるべきなのは何故ですか』という問があれば、本文の『何故なら……』から答えを探さなければならない。「男は男らしくあるべき、などというのは間違いだ」と思っても、その感想は読解とは関係ない。『恐竜は爬虫類の祖先である』といった数十年前の評論問題を解くときに、「いや鳥類の祖先だよね?」という反論は無意味だ。本文の前提は「恐竜は爬虫類の祖先」なのだから、その前提に従って読み進めねばならない。

 

主張されたことを主張されたとおりに理解する

 

これは「書かれていることを無批判に受け入れろ」ということでは無い。「相手の意見を理解する」を、「相手の意見を受け入れる」とイコールだと考える人が、何故かたまに居るようだけれど、全く違う。

自分の発言に反論されて、「俺そんなこと言ってないのに」と思った経験はないだろうか。ある主張に賛成するのも反対するのも、その「主張」を理解してからの話だ。元々の「主張」に対する理解が的外れであれば、それに対する賛成も反対も単なる妄言でしかない。『カレーが食べたい』という主張に、「え、おまえカレー嫌いなの?」と返答されても反応に困るだろう。

 つまり、相手の意見をなるべく正確に捉えること。あらゆる議論の出発点はここだ。それが出来て初めて、相手の意見に対する自分の意見・感想・反論が意味を持つ。これが出来ていないものは議論の振りをしたウンコの投げ合いである。

学校教育の国語読解は、本来その基本を身に付けるためにある。

 

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次書くかもしれないことのメモ:

指示語 接続詞 記述は具体的に 言い換え表現 評論の構造と小説の構造