愛国心:下書き1

愛国心」は一種のフェティシズムに過ぎない、考える。

「国家」は実体ではなく所定の目的のためのシステムだからだ。

 

国家というシステムが何のために存在しているか

 

近代国家は人為的に作られたシステム

自然発生ではないし、ましてや個人より以前にあった存在ではない

 

人のために国家があるのであって、その逆ではないことは、さすがに自明の理だとみなしたい

 

弱肉強食 自力救済 生活保護に対する批判

 

社会保障に頼る「弱者」を批判する人びとは、なぜ自分が国家の庇護下にいることを疑問に思わないのか 

 

であれば、自力で生きていけばいい。国家の存在は必要ない。 

 

センター試験 社会保障制度 への忠誠心?

 

全体は部分の集合以上のもの

単純に「システム」とのみ規定した場合 法人格の存在 国際社会においては国家が主権=主体として振る舞う

 

システムを維持するための義務 所属組織に対する愛着

 

パトリオシズムとナショナリズム 愛郷心愛国心 イタリア

国語:下書き3

主に学校科目としての国語について。

 

「作者の気持ちなんてわかんねえよ」というのが、国語が苦手な人の常套句であるように思う。が、この時点で間違っている。

まず、認識しておくべきは以下の二点。

「作者の気持ちなんて聞いてない」

「君の感想も聞いてない」

国語で問われているのは、「この文章には何が書かれていますか」ということのみで、答えは全て本文に書いてある。従って必要なのは「文章を書かれたとおりに読む」こと。つまり文法規則や文章構成通りに読むこと、端的に言うと誤読しないこと、それだけだ。

 

あらゆる文章には解釈の余地がある。同じ文章でも、読む人によって解釈は変わる。

それはそのとおりだけれど、学校科目としての国語で求められているのは、「テクストは書かれた瞬間に書き手から独立し、読み手に開かれている」とかそういうレベルの話ではない。

そもそも「解釈」の幅は無制限ではない。

例えば、「僕は今日はカレーが食べたい」という文章だけがあったとして、これを「ラーメンは豚骨醤油に限る」という意味だと解釈して良いだろうか。

これで「良い」と答えられてしまっては話が進まないので、「良くない」という前提で話を進める。

「僕はカレーが食べたい」という文章だけが単独で存在する場合、文法通りに可能な解釈は、文中の「僕」が「カレーが食べたい」と考えている、ということのみだ。

で、国語の問題が聞いているのは、<「僕はカレーが食べたい」という文章には何と書かれていますか>ということであり、その答えは<「僕」が、「カレーが食べたい」ということ>である。繰り返すが、それだけだ。

 

文脈を読む、という行為は必要である。が、これも別に、書いてもないことを想像しろ、ということではない。

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。

 

 問:

タカシ君が食べたいのは何カレーですか

 

 答:チキンカレー

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。先週までは。

タカシは一昨日初めて食べたグリーンカレーの刺激が忘れられない。

そのことを伝えようとしたのだが、母は「分かった」と言って、さっさと電話を切ってしまった。近所のスーパーは8時に閉まるので、急いでいたのだろう。

 

 

問:

1.タカシ君が食べたいのは何カレーですか

2.晩御飯で出てくるのは何カレーですか

 

答:1 キーマカレー 2 チキンカレー

 

「僕はカレーが食べたい」だけでは曖昧過ぎる。何カレーなのか、「僕」が誰なのか、場所や日時の設定はどうなっているのか、確定できる要素がない。前後の文章、つまり「文脈」が追加されることによって、それは明確になる。「文脈」とは、文章を複雑にするものではなく、解釈の幅を狭めて明確にするものである。

 

国語の基本は「文章を書かれたとおりに読む」こと。これは評論でも随筆でも小説でも共通だ。試験で出題されるのは、文法規則や文脈の通りに読めば、解釈がひとつに絞られるはずの箇所のみである。従って、随筆や小説でも、読む人によって解釈が異なるような箇所は、問題となることはない。「正解」が作れないからだ。

その点を踏まえれば、読解の練習のために重視すべきは評論だ。評論は、主張したいことが正確に伝わるように書かれている。「AはBだ」という主張を、「AはCだ」とか「AはBではない」とか理解されると困る。「AはBだ、と作者は主張しているのだな」と読み取ってもらわなければ意味がない。作者の文章力に難があれば別だが、少なくとも教科書や試験で出題されるものは、読めば伝わる文章が選ばれているはずである。その場合重要なのは、自分の意見や感想を挟まないこと。仮に書かれていることが間違いだと思っても、それは読解とは無関係である。例えば、

 

本文:

1+1は2だが、同時に3でもある。従って2+2は4でもありながら、6でもあるのだ

 

問:

「2+2は4でもありながら、6でもあるのだ」とありますが、それはなぜですか

 

答: 1+1は2だが、同時に3でもあるから

 

ここで「1+1は2であって、3というのは間違いだ」と思ったとしても、それは「この文章には何が書かれているか」の読解とは切り離されなければならない。

 

「主張されたことを主張されたとおりに理解する」

 

自分の発言に反論されて、「俺そんなこと言ってないのに」と思った経験はないだろうか。

 

人の意見に賛成にせよ反対にせよ、その「意見」についての理解が誤っていたら話にならない。

 

自分の意見をなるべく正確に伝えること、相手の意見をなるべく正確に捉えること。あらゆる議論の出発点はここで、これが出来ていないものは議論の振りをしたウンコの投げ合いである。学校教育の国語読解は、本来その基本を身に付けるためにある。

 

(時間が来たので今日はここまで)

 

 

 

 

 

 

国語:下書き2

主に学校科目としての国語について。

 

「作者の気持ちなんてわかんねえよ」というのが、国語が苦手な人の常套句であるように思う。が、この時点で間違っている。

まず、認識しておくべきは以下の二点。

「作者の気持ちなんて聞いてない」

「君の感想も聞いてない」

国語で問われているのは、「この文章には何が書かれていますか」ということのみで、答えは全て本文に書いてある。従って必要なのは、文法規則や文章構成通りに読むこと、端的に言うと誤読しないこと、それだけだ。

 

あらゆる文章には解釈の余地がある。同じ文章でも、読む人によって解釈は変わる。

それはそのとおりだけれど、学校科目としての国語で求められているのは、「テクストは書かれた瞬間に書き手から独立し、読み手に開かれている」とかそういうレベルの話ではない。

そもそも「解釈」の幅は無制限ではない。

例えば、「僕は今日はカレーが食べたい」という文章だけがあったとして、これを「ラーメンは豚骨醤油に限る」という意味だと解釈して良いだろうか。

これで「良い」と答えられてしまっては話が進まないので、「良くない」という前提で話を進める。

「僕はカレーが食べたい」という文章だけが単独で存在する場合、文法通りに可能な解釈は、文中の「僕」が「カレーが食べたい」と考えている、ということのみだ。

で、国語の問題が聞いているのは、<「僕はカレーが食べたい」という文章には何と書かれていますか>ということであり、その答えは<「僕」が、「カレーが食べたい」ということ>である。繰り返すが、それだけだ。

 

文脈を読む、という行為は必要である。が、これも別に、書いてもないことを想像しろ、ということではない。

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。

 

問:

タカシ君が食べたいのは何カレーですか

 

「カレーが食べたい」という文章だけであれば、何カレーかは不定。しかし上記の文章では、タカシにとってカレー=チキンカレーなので、答えは「チキンカレー」でなくてはいけない。

 

本文:

「僕はカレーが食べたい」

母の問いかけに、タカシはそう返答した。

彼にとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。先週までは。

タカシは一昨日初めて食べたグリーンカレーの刺激が忘れられない。

そのことを伝えようとしたのだが、母は「分かった、カレーね」と言って、さっさと電話を切ってしまった。

 

 

問:

1.タカシ君が食べたいのは何カレーですか

2.晩御飯で出てくるのは何カレーですか

 

この場合、1の答えは「キーマカレー」、2の答えは「チキンカレー」になる。

このくらいの簡単な文章であれば間違えることもないと思うけれど、文章が複雑になっても、やることはこれと同じだ。

 

「文章を書かれたとおりに読む」ことが国語の基本だとすれば、読解の練習のために重視すべきは物語文(小説)ではなく説明文(評論)だ。

そもそも評論は、主張したいことが正確に伝わるよう、作者が努力して書いている。「AはBだ」という主張を、「AはCだ」とか「AはBではない」とか理解されると困る。「AはBだ、と作者は主張しているのだな」と読み取ってもらわなければ意味がない。作者の文章力に難があれば別だが、少なくとも教科書や試験で出題されるものは、読めば伝わる文章が選ばれているはず。

 

(時間が来たので今日はここまで)

 

 

 

 

 

 

国語:下書き1

主に学校科目としての国語について。

 

「作者の気持ちなんてわかんねえよ」というのが、国語が苦手な人の常套句であるように思う。が、この時点で間違っている。

まず、認識しておくべきは以下の二点。

「作者の気持ちなんて聞いてない」

「君の感想も聞いてない」

国語で問われているのは、「この文章には何が書かれていますか」ということのみで、答えは全て本文に書いてある。従って必要なのは、文法規則や文章構成通りに読むこと、端的に言うと誤読しないこと、それだけだ。

 

あらゆる文章には解釈の余地がある。同じ文章でも、読む人によって解釈は変わる。

それはそのとおりだけれど、学校科目としての国語で求められているのは、「テクストは書かれた瞬間に書き手から独立し、読み手に開かれている」とかそういうレベルの話ではない。

そもそも、あらゆる文章には解釈の余地がある、と言っても、その「解釈」の幅は無制限ではない。

例えば、「僕は今日はカレーが食べたい」という文章だけがあったとして、これを読んで「筆者は20年前に別れた元カノへの未練が捨てきれないのだ」と解釈して良いだろうか。

これで「良い」と答えられてしまっては話が進まないので、「良くない」という前提で話を進める。

「僕はカレーが食べたい」という文章だけが単独である場合、文法通りに可能な解釈は、文中の「僕」なる人物が「カレーが食べたい」と考えている、ということのみだ。

で、国語の問題が聞いているのは、<「僕はカレーが食べたい」という文章には何と書かれていますか>ということであり、その答えは<「僕」が、「カレーが食べたい」ということ>である。繰り返すが、それだけだ。

 

文脈を読む、という行為は必要である。が、これも別に、書いてもないことを想像しろ、ということではない。

例えば以下の本文と問があったとしよう。

 

本文:

タカシにとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。彼の家ではカレーの肉は常にチキンだったし、家以外でカレーを食べたこともなかったからだ。

「僕はカレーが食べたい」

彼の母が彼に晩御飯の希望を聞いたとき、タカシはそう返答した。

 

問:

タカシ君が食べたいといったカレーは何カレーですか

 

「カレーが食べたい」という文章だけであれば、その「カレー」が何かは不定。しかし上記の文章では、たかしにとってカレー=チキンカレーということになっているので、問に対する答えは「チキンカレー」でなくてはいけない。

次の例。

 

本文:

タカシにとって、カレーと言えばチキンカレーのことだった。彼の家ではカレーの肉は常にチキンだったし、家以外でカレーを食べたこともなかったからだ。

「僕はカレーが食べたい」

彼の母が彼に晩御飯の希望を聞いたとき、タカシはそう返答した。だから彼の母は、いつものように、チキンカレーの準備を始めた。

しかし、タカシにとってカレーがチキンカレーだったのは18歳まで、高校を卒業した彼が家を飛び出るまでのことだ。20数年ぶりの実家、母の姿。すべてを捨てたつもりだったタカシは、「母の手料理」の記憶も、半ば意図的に忘れ去っていた。今の彼にとっての「カレー」は、家を出てから数年間、同棲していた彼女が作ってくれていたビーフカレーだ。今や彼は、「カレーの肉と言えば?」と問われれば、「え?牛肉以外の選択肢なんてあるの?」と―本心から―答えるようになっていた。

 

問:

1.タカシ君が食べたいといったカレーは何カレーですか

2.晩御飯で出てくるカレーは何カレーですか

 

(時間が来たので今日はここまで)